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杷木神籠石

2014.02.05 Wed
国指定史跡
はきこうごいし
杷木神籠石

★所在地
福岡県朝倉市杷木町

神籠石は、山の尾根と谷をいくつか取り込んで大きく外周に土塁をめぐらした古代の山城の一種。福岡県を中心に、佐賀、山口、岡山、愛媛、香川の各県に分布している。大野城や基肄城等のいわゆる朝鮮式山城と築造技術など共通する点が多いが、神籠石は『日本書紀』等の記録に記載がなく、斉明天皇の朝倉橘広庭宮との関係も取りざたされる謎の山城。杷木神籠石は全長2.3kmで、切石を並べて土塁の崩壊を防ぎ、谷部では2ヶ所で水門が発見されている。

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<神籠石・神籠石式山城>
古代の西日本に築造された遺跡で、現状『日本書紀』『続日本紀』などの文献資料に記載がなく、遺構でしか存在を確認できない山城を指す。本来は磐座(神の依り代となる岩石)を指す。神籠石は、当て字で皮籠石、交合石、皇后石などとも書き、「こうご」の本来の意味は分かっていない。本来高良大社の参道脇にある「馬蹄石」など、神の依り代となる岩石のことを指す名称であったが、近くにある列石(高良山では「八葉石塁」「八葉の石畳」と呼ばれていた)と混同して学界に報告されたため、列石遺構の方にこの名が付けられた。その後、他の類似した石積み遺構にも神籠石の名を冠するようになったが、命名の経緯からすれば明らかな誤りである。神籠石が学会に発表されたのは、明治31年(1898年)に小林庄次郎が筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介したのが最初である。明治33年(1900年)に九州所在の神籠石を踏査した八木奬三郎が「城郭を除いては、他にこの類の大工事なかるべし」として城郭であることを主張したのに対し、喜田貞吉が神社を取り囲む聖域であると反論したことで、神籠石の性格について霊域説と城郭説との論争が展開された。昭和38年(1963年)の佐賀県武雄市おつぼ山神籠石の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた土塁と、列石の前面に3m間隔で並ぶ堀立柱の痕跡が発見され、山城であることが確定的となった。
北部九州から瀬戸内沿岸にかけて、16箇所が知られる。それぞれの神籠石の差異は大きい。御所ヶ谷のように「最初期形成時代以降にかなりの手が入っていると思われるもの」や、雷山のように「生活域、食料生産域と隔絶し、水の確保が難しく、籠城には向かず、祭祀遺跡との位置関係が特殊であるもの」、おつぼ山のように「稲作農耕地域の小丘陵に設置されているもの」など様々である。現在まで、神籠石が何時頃作られたかも判明しておらず、成立年代は同じであったとしても、これほど様々に状況の違うものを現在的視点から総轄し暫定的に神籠石と総称している可能性もあり、おつぼ山の調査結果は「神籠石の中に山城として使われていたことがあるものもある」ことが確定しただけに過ぎない。生活域に近い神籠石の場合、遺構中からの発掘物が無批判に神籠石の性格を規定できるものではないのも当然である。また、仮にこれらすべてが単純に古代山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、大和王朝成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずであるが、現代(21世紀初頭)の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代において知る極めて有効な事例であるとの声もある。

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