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八紘之基柱

2015.07.12 Sun
あめつちのもとはしら
【八紘之基柱】
宮崎県宮崎市の平和台公園に位置する塔。
現在の名称は「平和の塔」。また正面に彫られた「八紘一宇」の4文字から「八紘一宇の塔」ともいう。

*所在地
【県立平和台公園】
宮崎県宮崎市下北方町越ヶ迫6146
公式ホームページ

*御由緒
神武天皇即位紀元(皇紀)2600年(1940)を祝うにあたり、国は紀元二千六百年奉祝事業として宮崎神宮の拡大整備事業を行うことになった。そして宮崎県当局も「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」を立ち上げ、県を挙げて奉祝することになった。当時の知事相川勝六(奉祝会会長も兼任)は、「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を作る事を提案し、実行に移すことになった。
相川知事は大阪毎日新聞・東京日日新聞(両紙とも毎日新聞の前身)に頼み、この塔を設計する彫刻家を公募した。そして名乗りを上げたのが日名子実三である。日名子は「報酬は一文もいらぬから是非自分にやらせて下さい」と申し出て、相川知事も日名子の熱心さと彫刻家としての名声から、この申し出を了承することになった。相川知事は条件として、「何ヶ月間か宮崎県内を巡り、その風物に触れて構想を練ってほしい」と注文を出し、日名子もこれを受け入れた。そして宮崎神宮に参拝した際に、日名子は御幣を見てインスピレーションを感じ取って、これに盾を組み合わせたデザインにしたという。
場所について、相川知事は当初神武天皇縁の地である「皇宮屋」を考えていたが、県の幹部より皇宮屋の北部の台地を勧められ、実際に現地を訪れた結果、この地に建造することになった。
昭和14年(1939)年3月、日名子は模型を完成させ、相川知事の了解を得た。そして5月20日から工事が始まった。延べ約6万人の労働により翌年の11月25日に完成した。
※戦後
昭和21年(1946)にGHQの命により、「八紘一宇」の文字と武人の象徴であった荒御魂像が撤去された。塔自体の名称も「平和の塔」となった。一時はロッククライミングの練習場代わりに使われるほど荒廃した。
やがて占領統治が終わった昭和37年(1962)に荒御魂像が、昭和40年(1965)に「八紘一宇」の文字が復元された。これらの復元を主唱した県観光協会会長の岩切章太郎に革新政党や労働組合が抗議に訪れたが、「日名子の芸術作品だから元に戻すのが当然」と追い返したという。

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正面には「八紘一宇」の文字(秩父宮雍仁親王筆)が刻まれ、四方に武人である「荒御魂(あらみたま)」、商工人である「和御魂(にぎみたま)」、農耕人である「幸御魂(さちみたま)」、漁人である「奇御魂(くしみたま)」の信楽焼の四神像が配置されている。
塔内部は空洞になっており、「厳室」と呼ばれている。厳室入口の青銅製の扉には、神武天皇が美々津から出航する場面が彫られている。厳室内には、塔に彫られた「八紘一宇」文字の元となった秩父宮の真筆が安置されている。また日名子の作品である8個のレリーフ(大国主命国土奉還、天孫降臨、鵜戸の産屋、橿原の御即位式、明治大帝御東遷、紀元二千六百年興亜の大業、太平洋半球、大西洋半球)が架けられている。ただしこれらのレリーフは石膏でできており、劣化しやすいため、厳室内は原則非公開となっている。
また1789個の切石(縦45cm・横60cm・幅15cm)が土台として使われている。日本国内はもとより、日本国外からも日本人会を通じて寄贈された(提供者は法人・団体に限られた)。


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宮崎神宮

2015.07.12 Sun
みやざきじんぐう
【宮崎神宮】
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

*所在地
宮崎県宮崎市神宮2-4-1

*御祭神
かむやまといわれひこのすめらみこと
・神日本磐余彦天皇(第一代・神武天皇)
※相殿(左)
うがやふきあえずのみこと
・鸕鷀草葺不合尊(御父君)
※相殿(右)
たまよりひめのみこと
・玉依姫命(御母君)

*御由緒
社伝によれば、鎮座地は神武天皇が東征以前に宮を営んだ地で、後に九州に下向してきた皇孫の建磐龍命(阿蘇神社の祭神)がその縁に因んで創祀したといい、崇神天皇の時代に初めて社殿が創建され、景行天皇の熊襲征討に際して重ねて造営がなされ、更に応神天皇の時代からは『国造本紀』に載せる日向国造の祖、老男命が祀るようになったと伝える。
古くから鎮座していたのは確からしいが上古の由緒は不明で、文献上の初見は鎌倉時代初めまで降り、当地の地頭職にあった土持信綱が現在地に社殿を造営し、皇宮屋(現境外摂社)から建久8年(1197)に遷座したという記録である。『神皇正統記』に神武天皇が「日向の宮崎の宮」から東征したと記すように、中世には東征以前に宮崎に帝都があったとする説も定着し、当宮をこれに充てるようになったと思われ(『古事記』に載せる高千穂宮(高千穂神社)に擬する説もある)、以後神武天皇に対する崇敬から、歴代の領主により深く崇敬された。文明5年(1473 )に伊東祐国が蓮ヶ池(現宮崎市村角町)と下北方(同下北方町)の一部を奉献したのを始め、永禄3年(1560)に有馬永純が社領として2石5斗を寄進、同5年(1562)には伊東義祐が下北方・江平(現宮崎市江平町一帯)から領地を割いて奉献、更に天正5年(1577)には島津義久が米穀や幣帛を奉献している。
江戸時代には、延岡藩が当地を所領し、寛永21年(1644)藩主有馬康純が社殿を造営、天保10年(1839)にも藩主内藤政義による修造が行われている。もっとも、神武天皇を祀る古社とはいえ、江戸時代までは地方の1古社に過ぎず、当宮が広く全国的に知られるようになったのは、明治維新の王政復古の大号令で「神武創業の始め」に復することが唱導され、当宮が脚光を浴びるようになってからである。
明治6年に 県社と定められた(この時宮崎神社と改称)が、神武天皇の最初の宮地であるとの伝承から特別の待遇を受けるようになり、同8年に国幣中社、同18年には官幣大社へと累進した。同32年には総裁を二条基弘、会長を島津忠亮とする「神武天皇御降誕大祭会」が組織され、高木兼寛が幹事長となって全国から寄付金を集めて境内整備を行い、同40年にほぼ現在の姿となったが、更に昭和15年、紀元2600年を記念した拡大整備事業(その規模は橿原神宮に次いで全国2位であったという)で、現在の境内が完成した。戦後は神社本庁の別表神社となり、現在に至っている。

公式ホームページ

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◆御系譜
天照大御神 - 天忍穂耳尊 - 彦火瓊瓊杵尊 - 彦火火出見尊 - 鸕鷀草葺不合尊 - 神日本磐余彦天皇(神武天皇)・・・今上陛下(第125代)

日本の太陽信仰(天照大御神信仰)はBC5300年の鬼界カルデラ大噴火に起因すると考える説も存在する。天照大神が隠れ、日本が真っ暗になった天岩戸神話を鬼界カルデラ大噴火の火山灰の雲による大災害と見る説もある。

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