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武雄神社

2014.08.12 Tue
たけおじんじゃ
【武雄神社】

★所在地
佐賀県武雄市武雄町大字武雄5335

★御祭神
<主祭神>
たけうちのすくね
・武内宿弥
<相殿神>
たけおこころのみこと
・武雄心命
ちゅうあいてんのう
・仲哀天皇
じんぐうこうごう
・神功皇后
おうじんてんのう
・応神天皇

★御由緒
『武雄神社本紀』によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとあります。これにより同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽(船の艫)に鎮座し創祀されました。
而して天平7年(735年)初代宮司 伴行頼に『吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても畏れ多く落着かないので、幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう。』との神託がありました。行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武雄心命を合祀し北麓に遷宮したと記されています。
平安中期には、武雄神社の祭礼に国使が参向しており、杵島郡の鎮守として郡民の崇敬をうけていたばかりでなく、肥前に於ける名社として深く重んぜられていました。
元永年中(1118~20年頃)武雄二代領主 後藤資茂が、朝夕秀麗な御船山の麓に鎮座する武雄神社を望み、築城の適地と思い、朝廷に奏請して当社を舳嶽東麓(現在地)に遷しました。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは、源頼朝が当社に密使を使わせ平家追討祈願をしました。平家を滅ぼした頼朝は、勝利を武雄神社の神徳によるものと感じ、後鳥羽天皇の勅使と名代の御家人を赴かせ『御教書』を送り深謝しました。
この参詣を歓迎して、武雄四代領主の後藤宗明が流鏑馬を奉納し、以来、氏子のてによって『武雄の流鏑馬』は、八百年以上ものあいだ連綿と継承されています。 また、これを機に武雄神社と源氏との関係は極めて密接となり、神社として将軍家の祈祷に当たる関東御祈祷所の使命と、社家として御家人の使命を有し、二重の立場に於いて活動することになりました。
鎌倉中期の元寇では、未曾有の国難に際し、伏見天皇より異国降伏の祈祷の『綸旨』を賜る光栄に浴するなど、国家的な存在でありました。本紀によれば、文永の役の十月二十日の夜、武雄神社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、元軍は逃げていったとしてあり、また、弘安の役では上宮から紫の幡が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたとあります。この霊験により『九州五社ノ内』と称され、九州の宗社として隆々と栄えた時代もありました。
現在では武雄の氏神社として、また樹齢三千年のご神木を祀る神社として、氏子はもとより全国各地から広く信仰を集めております。

公式ホームページ

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【武雄の大楠】
武雄神社の御神木
私達の祖先は、自然界一つ一つの働きに神を感じ、森羅万象全てのものに神が宿るとして、怒りに触れないための祈りと自然の恵みに感謝を捧げ崇めてきました。 殊に大きな木や岩などには神を感じ、信仰の対象としてきました。
武雄神社の背後には、御船山の神奈備(神が隠れ住まう山)があります。 本殿裏の竹林を抜けると眼前が開け、そこには3000年の悠久の時を経て今もなお未来永劫に生き抜こうとする大楠が姿を現します。荘重で威厳に充ち満ちた力強さに、畏敬の念を抱かずにはいられません。

高さ27m
根回り26m
根元の空洞の広さは12畳敷
平成元年の環境庁の調査では、全国6位の巨木

Theme:神社 | Genre:学問・文化・芸術 |
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武雄神社

2013.12.18 Wed
★所在地
佐賀県武雄市武雄町大字武雄5335

★御祭神
<主祭神>
・武内宿弥
<相殿神>
・武雄心命
・仲哀天皇
・神功皇后
・応神天皇

★御由緒
武雄神社の創建は、武雄社本紀によれば遠く奈良時代の天平7年(735)となっています。祭神は武内宿弥を主神とし仲哀、応神両天皇、神功皇后、武雄心命を併祀して、五社大明神とも称し、往時九州の宗社として隆々と栄えた時代もありました。神社に保存されている古文書218通は国の重要文化財に指定され最古のものは天暦5年(951)社領を記した「四至実検状」で佐賀県でも一番古く朝廷の実検使が送ったものであります。その他伏見天皇のご綸旨や源頼朝の御教書をはじめ平安、鎌倉、南北朝、室町時代における貴重な文献であります。神社の大きな行事として、2月17日歩射祭、10月22・23日秋まつりお供日行事として「宵の祭」「流鏑馬」が行われます。第一、第三鳥居は肥前鳥居と称し、その型式が肥前の国独特のものであります。

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<神が宿る樹齢三千年の大楠 武雄の大楠>
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<神が宿る樹齢三千年の大楠 武雄の大楠>
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<神が宿る樹齢三千年の大楠 武雄の大楠>
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<神が宿る樹齢三千年の大楠 武雄の大楠>
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<神が宿る樹齢三千年の大楠 武雄の大楠>
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<神が宿る樹齢三千年の大楠 武雄の大楠>
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<えんむすびの夫婦檜 むすびの檜>
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<えんむすびの夫婦檜 むすびの檜>
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<えんむすびの夫婦檜 むすびの檜>
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<御船山の南嶽(船の艫)と北嶽(船の舳)>
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<武雄供日の流鏑馬行事>
供日とは秋祭りのことで、神様に新穀をお供えする日といわれています。武雄の供日は旧暦9月23日、現在は10月23日に行われます。そのはじまりは、源平争乱の時代にさかのぼります。寿永3年(1184)平家追討を進める源頼朝は、密使を武雄神社にやって平家追討を祈願し、白鷺が源氏を守護したので、勝利をおさめました。文治2年(1186)、頼朝は教書を送り戦勝を深謝し、さらに後鳥羽天皇の勅使藤原基氏と鎌倉の使者天野遠景をやって戦勝を報告させました。彼らが武雄に着いたのは9月21日で、武雄領主後藤宗明は神主守門と打ち合わせて23日に武雄神社に参詣し、神事が終わったあと流鏑馬を奉納して神慮を慰めました。これが武雄神社の秋祭り(武雄供日)のはじまりと言われています。武雄供日の流鏑馬行事は、22日の宵祭から始まります。宵の祭りは甘久区が担当で、夕刻になると供え物をもって武雄神社に集まり、神事の後拝殿で荒踊を奉納し、行列を組んでエイトーを唄いながら長持を青竹で叩いて市街地を経由して甘久公民館まで戻ります。23日は、武雄神社から射手奉仕が八並に弓をもって行き、下西山区からは御神馬が八並に向かいます。御神馬が到着すると勅使や鎌倉の使者・諸役が行列をなして武雄神社に向かいます。これを上り馬(行列)といい、武雄神社に到着すると浄めの儀が行われ、神事の後、馬場透をし、御神輿が下宮にお下りし、また本殿にお上りします。この後、流鏑馬の射礼と競射が行われ、当り的渡しが済むと下り馬(行列)となります。行列は市街で追い馬をし、八並公民館に戻ったところで締めが行われ、一連の行事が終了します。

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おつぼ山神籠石

2013.05.06 Mon
国指定史跡
おつぼやまこうごいし
おつぼ山神籠石

★所在地
佐賀県武雄市橘町小野原

おつぼ山神籠石は、昭和37年に全国で8番目の神籠石として発見され、翌38年に発掘調査が行われました。その結果、朝鮮式の山城であることが確認され、それまで神域説と山城説で大論争をしていた神籠石の性格に終止符を打った遺跡として学史にその名を残しています。おつぼ山神籠石の列石は、総延長が1866mあり、このうち北端から南西部にかけて列石が抜けて確認できないところがあります。おつぼ山を取り巻いている列石の個々の石はおよそ高さ70cm、厚さ40cmで、残石の数は1313個です。列石の前面には3m間隔で10度内傾させた柱穴があり、城壁となる土塁を築くための板を押さえた柱の穴と考えられます。また、第一土塁の前面では、この柱穴列と列石の間に小礎石が1m間隔で発見されていることから、柱穴の柱と小礎石の柱を合掌式に組み合わせて防御柵を構成したとも考えられています。確認された柱穴のうち、第一水門前からは柱根3本が出土しています。おつぼ山神籠石に関する遺物としては唯一のものです。列石に使用された石材は、安山岩質の凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)と呼ばれる石で、杵島山の各所でみられるものです。おつぼ山に近い立岩付近がその原石の採集加工地とみられています。列石の上には幅9mの土塁があり、谷間には水門が設けられ、門跡も2箇所が確認されています。土塁の基礎石としての列石は複雑な山の地形に応じて曲線を描いています。特に、水門の部分がおつぼ山神籠石ほど曲線を描くものは他に例を見ない特徴的なものです。

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<神籠石・神籠石式山城>
古代の西日本に築造された遺跡で、現状『日本書紀』『続日本紀』などの文献資料に記載がなく、遺構でしか存在を確認できない山城を指す。本来は磐座(神の依り代となる岩石)を指す。神籠石は、当て字で皮籠石、交合石、皇后石などとも書き、「こうご」の本来の意味は分かっていない。本来高良大社の参道脇にある「馬蹄石」など、神の依り代となる岩石のことを指す名称であったが、近くにある列石(高良山では「八葉石塁」「八葉の石畳」と呼ばれていた)と混同して学界に報告されたため、列石遺構の方にこの名が付けられた。その後、他の類似した石積み遺構にも神籠石の名を冠するようになったが、命名の経緯からすれば明らかな誤りである。神籠石が学会に発表されたのは、明治31年(1898)に小林庄次郎が筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介したのが最初である。明治33年(1900)に九州所在の神籠石を踏査した八木奬三郎が「城郭を除いては、他にこの類の大工事なかるべし」として城郭であることを主張したのに対し、喜田貞吉が神社を取り囲む聖域であると反論したことで、神籠石の性格について霊域説と城郭説との論争が展開された。昭和38年(1963)の佐賀県武雄市おつぼ山神籠石の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた土塁と、列石の前面に3m間隔で並ぶ堀立柱の痕跡が発見され、山城であることが確定的となった。
北部九州から瀬戸内沿岸にかけて、16箇所が知られる。それぞれの神籠石の差異は大きい。御所ヶ谷のように「最初期形成時代以降にかなりの手が入っていると思われるもの」や、雷山のように「生活域、食料生産域と隔絶し、水の確保が難しく、籠城には向かず、祭祀遺跡との位置関係が特殊であるもの」、おつぼ山のように「稲作農耕地域の小丘陵に設置されているもの」など様々である。現在まで、神籠石が何時頃作られたかも判明しておらず、成立年代は同じであったとしても、これほど様々に状況の違うものを現在的視点から総轄し暫定的に神籠石と総称している可能性もあり、おつぼ山の調査結果は「神籠石の中に山城として使われていたことがあるものもある」ことが確定しただけに過ぎない。生活域に近い神籠石の場合、遺構中からの発掘物が無批判に神籠石の性格を規定できるものではないのも当然である。また、仮にこれらすべてが単純に古代山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、大和王朝成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずであるが、現代(21世紀初頭)の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代において知る極めて有効な事例であるとの声もある。

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