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御所ヶ谷神籠石

2013.05.12 Sun
ごしょがたにこうごいし
【御所ヶ谷神籠石】
国指定史跡

★所在地
福岡県行橋市津積御所ヶ谷

★概要
・景行天皇が熊襲征伐の際に、この地に立ち寄ったと伝えられ、景行神社が鎮座している。
・門跡七ヶ所(東門・中門・西門・第二の西門・東北門・南門・南西門)、列石十ヶ所、梁行三間×桁行四間の総柱礎石郡などが確認されており、神籠石の中でも、規模と保存状態が良い。
・門跡の中でも中門の規模は特に大きく、水門は高さ7.5m、長さ18mの二段の石塁である。石材は全て花崗岩である。
・山頂部を底辺北側の谷を頂点とする三角状の範囲{東西(底辺)900m、南北(高さ)600m、比高差170m}が列石と土塁によって囲まれ、その推定外周は約3キロメートルにもおよぶ。なお一部列石が二重になっている。

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<神籠石・神籠石式山城>
古代の西日本に築造された遺跡で、現状『日本書紀』『続日本紀』などの文献資料に記載がなく、遺構でしか存在を確認できない山城を指す。本来は磐座(神の依り代となる岩石)を指す。神籠石は、当て字で皮籠石、交合石、皇后石などとも書き、「こうご」の本来の意味は分かっていない。本来高良大社の参道脇にある「馬蹄石」など、神の依り代となる岩石のことを指す名称であったが、近くにある列石(高良山では「八葉石塁」「八葉の石畳」と呼ばれていた)と混同して学界に報告されたため、列石遺構の方にこの名が付けられた。その後、他の類似した石積み遺構にも神籠石の名を冠するようになったが、命名の経緯からすれば明らかな誤りである。神籠石が学会に発表されたのは、明治31年(1898)に小林庄次郎が筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介したのが最初である。明治33年(1900)に九州所在の神籠石を踏査した八木奬三郎が「城郭を除いては、他にこの類の大工事なかるべし」として城郭であることを主張したのに対し、喜田貞吉が神社を取り囲む聖域であると反論したことで、神籠石の性格について霊域説と城郭説との論争が展開された。昭和38年(1963)の佐賀県武雄市おつぼ山神籠石の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた土塁と、列石の前面に3m間隔で並ぶ堀立柱の痕跡が発見され、山城であることが確定的となった。
北部九州から瀬戸内沿岸にかけて、16箇所が知られる。それぞれの神籠石の差異は大きい。御所ヶ谷のように「最初期形成時代以降にかなりの手が入っていると思われるもの」や、雷山のように「生活域、食料生産域と隔絶し、水の確保が難しく、籠城には向かず、祭祀遺跡との位置関係が特殊であるもの」、おつぼ山のように「稲作農耕地域の小丘陵に設置されているもの」など様々である。現在まで、神籠石が何時頃作られたかも判明しておらず、成立年代は同じであったとしても、これほど様々に状況の違うものを現在的視点から総轄し暫定的に神籠石と総称している可能性もあり、おつぼ山の調査結果は「神籠石の中に山城として使われていたことがあるものもある」ことが確定しただけに過ぎない。生活域に近い神籠石の場合、遺構中からの発掘物が無批判に神籠石の性格を規定できるものではないのも当然である。また、仮にこれらすべてが単純に古代山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、大和王朝成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずであるが、現代(21世紀初頭)の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代において知る極めて有効な事例であるとの声もある。


【住吉神社】

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